《詳細版》アウシュビッツ・ビルケナウ収容所

旅行中に投稿した「ほぼライブ」版はコチラ

《詳細版》ナチスの悪行と東西文化の接点を訪ねる(第5日目)

令和2年(2020)2月4日

おはようございます。

昨晩はウイスキーをかなり飲んでから就寝したため、1時半頃に一旦目が覚めたものの、その後も睡眠を取ることが出来、起床は4時半。久々に7時間程度の睡眠時間。

クラクフで宿泊しているホテルは朝食付。7時になって、食堂に出向くと、バイキング式。

パンは固く、不味くはないものの、ボソボソした感じ。サラミとピクルスを挟んで、即席サンドイッチにして食べる。スクランブルエッグには持参した万能調味料をかけて、美味しくいただく。ソーセージとピーマンの炒め物は、特に変わったこともなく、想像どおりの味。リンゴジュースは少し薄い感じだが、水代わりなので丁度良い。コーヒーカップの中身はラテ。こちらはミルクのせいか濃~いお味。

アウシュビッツ·ビルケナウ収容所ツアー

本日参加するアウシュビッツ·ビルケナウ収容所へのツアーは、ホテルの前のマテイキ広場の騎馬像前に9時集合。

5分前に行くが、騎馬像前には誰も見えない。騎馬像に近づいて行くと、女性が現れ、ツアーの参加者かどうか訊ねられる。

参加者である旨と名前を伝えると、傍らに停まっているミニバスへ乗っているようにとの御指示。ツアー参加者は自分以外に4人のようだが、集合時間を過ぎても1人が現れない。結局、約10分程待っても来なかったので、バスは騎馬像前を出発。

アウシュビッツ・ビルケナウを訪れる前には、事前のお勉強が必要!

アウシュビッツ・ビルケナウ収容所を訪ねるに当たって、事前(出国直前!)に映画「シンドラーのリスト」をPCで視聴。ユダヤ人が押し込められたゲットーや収容所の様子などが良く分かる。

それとアウシュビッツに収容されたものの生き延びた精神科医が執筆した体験禄「夜と霧」を読み終えておく(読み終えたのは、ミュンヘン・クラクフ間の航空機内)。この書籍の存在は知らなかったが、掛かりつけのクリニックのドクターのお勧めで購読。おかげで、収容所に連行される様子や連行されたユダヤ人が強制労働組とガス室送り組に振り分けられる様子、収容所内の過酷な生存競争などが理解できる(この書籍を読んでおかなくては、アウシュビッツ公認日本語ガイドの説明だけでは十分理解出来ませんでした)。

アウシュビッツ·ビルケナウ収容所に到着

オシフィエンチムという場所にあるアウシュビッツ・ビルケナウ収容所までの所要時間は1時間15分ということだったが、少し遅れて、到着したのは10時半過ぎ。ちなみにドイツがポーランドを併合した際、ポーランドの地名をドイツ語に変換。オシフィエンチムのドイツ語表記がアウシュビッツ。

駐車場にはバスが何台も停まっており、入場口の他、トイレ、資料販売店、レストランなどのあるビジターセンター入口は大混雑。地下のトイレは有料で、ネット上の情報より値上げされていて1回・2ズロチ(約60円)。

ビジターセンター。あまりにも混雑していたので、帰りに撮影

さて、日本では一般に「アウシュビッツ」と表現されているが、正確に言うと、元々、ポーランドが所有していた兵舎をドイツが取り上げて収容所にしたのがアウシュビッツ。ソ連の捕虜やポーランドの政治犯、同性愛者などが主に収容された場所。現在は、収容所の内部に資料が展示され、博物館となっている。

一方、映画「シンドラーのリスト」でアウシュビッツとして描かれている場所はビルケナウ収容所。白樺の林という意味のビルケナウ収容所はアウシュビッツからシャトルバスで約10分の場所に位置しており、ヨーロッパ中からユダヤ人が貨車で連れて来られて、貨車を降りるなり、強制労働組とガス室送り組に選別された収容所。

「航空券・ホテル等の手配」に記述してあるが、VERTLAを通じて参加した今回のツアーは、英語の公式ガイドの説明を同行するスタッフが日本語に通訳してくれるというツアー。同行する女性スタッフの日本語は聞き取りやすくて安心。しかし、現地に到着すると、今回は公認日本語ガイドが案内するとのこと。これはラッキー!と思ったのも束の間、高齢男性ガイドの日本語は発音が悪くて聴き取りにくい。事前に「夜と霧」を読んだりして、ある程度の知識を持っていないと説明が理解出来ない。

アウシュビッツ収容所

まずは、空港並みのセキュリティーチェック(ユダヤ関連施設はみんなセキュリティーチェックが厳しい)を受けて、ガイド氏の説明を無線で受信するレシーバー&イヤホンを受け取って、アウシュビッツ収容所内へ。

ビジターセンターから200M程進んだ所にアウシュビッツ収容所の入口ゲート。

「働けば自由になれる」と表示されている。ARBEITのBがひっくり返っているのは「抵抗の証」という説もあるが、一方でこうしたデザインが流行ったという説も。米国発の玩具屋さんの店名もRがひっくり返っている。せっかく、ガス室送りから免れたのに、この程度の抵抗で処刑されては堪らないというのがmicの見解。

収容所の中と外を隔てる場所には、二重に貼られた高圧電線の柵。

一応、楽団も編成されていたが、演奏させられていたのはドイツ軍楽

元々のポーランド兵舎は平屋。接収後に2階を増築したため、窓の形も異なる。

館内に入ると、1940年から5年間でアウシュビッツに送られた130万人の内訳が表示。ユダヤ人110万人、ドイツによる併合に抵抗したポーランド人14~15万人、ロマ(差別用語ですが、いわゆるジプシー)2万3000人、ソ連軍の捕虜1万5000人、その他2万5000人。このうち110万人がガス室で殺害され、その90%はユダヤ人。

連行されたユダヤ人が住んでいた居住地。ヨーロッパ全域から連行。

ビルケナウ収容所で、貨車から降ろされたユダヤ人が強制労働組とガス室送り組に選別される様子を撮影した写真も展示。

殺害された遺体は焼却炉で焼かれ、遺灰は川に流された。終戦後、焼却炉跡に少量残っていたのが唯一の犠牲者の遺灰。

上部ガラスケース内が唯一残った遺灰

連行されてきた人々の個人情報が記載されたカードも作成されていた。

これはユダヤ人のカード

大量虐殺に使用された毒ガスは「ツィクロンB」。毒ガスというと、気体か液体を想像するが、元々、農薬(殺虫剤)用に開発された 「ツィクロンB」は青酸ガスをペレットに浸み込ませて使用された。

写真を撮り忘れたので、
ネット上からアウシュビッツでの展示写真を借用

アウシュビッツ(右下)とビルケナウ(左)両収容所の位置関係が示された解説図。アウシュビッツに比べて、ユダヤ人を殺害・収容するために建設されたビルケナウの方が遥かに広大。

左の男性は、公認日本語ガイド

ビルケナウ収容所に設置(終戦直前に証拠隠滅のため爆破処理)されていたガス室と遺体焼却炉の模型。左から、「シャワー」を待つ人々、真ん中がシャワー室と言われて送り込まれるガス室、そして右が遺体焼却炉。ある意味、非常にシステマチックな「処理」で、ゲルマン民族の合理性の現れ。

毒ガスの空き缶。1缶に1kgのツィクロンBペレットが入っていて、700人が入れられたガス室に7缶が使用されたとのこと。

当時のドイツは貧しくて、物資も不足。連行(殺害)されたユダヤ人の所有物は、再利用のための仕分けが行われていた。

メガネ
義足等
食器類
カバン。表面には「後で返却する」と言われて、所有者が書いた名前
子供用の靴
缶類

そして、案内されたのは撮影禁止のフロアー。物資不足の中、アウシュビッツ·ビルケナウ収容所として収益を上げようとしたのが、虐殺した方々の毛髪。毛布の原料として出荷していたとのこと。戦後、証拠隠滅から漏れた出荷用の毛髪が発見され、製造されていた毛布からも毒ガス成分であるチクロンBが検出されたことから判明したとのこと。ガラスで隔たれたフロアー一杯に毛髪の山。ここにあるだけでも数万人分の女性の毛髪のはず。

資料の展示された建物から移動して、主としてポーランド人政治犯などが収容されていた建物へ。

収容者は、一応、裁判にかけられたとのこと。入口付近に「裁判」を行った部屋があり、その奥には収容室。そして、一番奥の外には銃殺場所。連行された人々は、有罪判決を受け、鉄格子越しに銃殺される人々が見える収容室に送り込まれ、自らの処刑を待つという配置。

最初の数週間、送り込まれるワラ敷の部屋
トイレ
身体などを洗う場所
身体を洗う場所の壁には収容者が描いたフレスコ画
収容室のベッド。1段に2人が寝かされた
ただし、収容者を監視する役の収容者(カポーと呼ばれていた。ほとんどが刑法犯)は一人一台のベット

処刑(銃殺)場の中では会話禁止。ナチス・ドイツに抵抗した多くの「政治犯」が黒い壁の前に立たされて銃殺された場所。数日前に開催されたアウシュビッツ開放75周年式典においてEU各国首脳が捧げた花輪がまだ美しさを保っている。

当然、脱走を試みる人も多数。脱走未遂で捕まると絞首刑。


絞首刑用の梁は、復元したもの

そして、ガス室と焼却炉のある建物へ。

建物の右側にガス室、煙突のある左側が焼却施設

建物の中に入り、小部屋を通過した先がガス室。幅の狭い25mプール程度の広さ。この中に700人が詰め込まれたとのこと。

中央位置から撮影のため、実際の広さは写真に写っているスペースの倍

そして、天井に空いた穴から7缶(1kg入り)の ツィクロンBが投入された。

殺害された遺体は、隣の焼却炉で焼かれた。

ガス室が建っているのは、収容エリアから出た管理練が建ち並ぶエリア。ガス室の先には収容所長が住んだ家。手前のスペースでは収容所長の娘達が遊んでいたとのこと。

戦後、逃亡していた収容所長は引き戻され、住んでいた家とガス室の間のスペースに作られた収容所を見渡せる絞首刑に架けられたとのこと。

これでアウシュビッツの見学は終了。出口で説明を聞くレシーバーを返却して、一旦、ビジターセンターで小休止。ビルケナウにはトイレが無いとのことで、トイレを済ませておく。

ビルケナウ収容所

ビルケナウ収容所へは、ビジターセンターの駐車場外れから連結バスに乗って約10分。バスを降りると、地面は雨でグチャグチャ、水溜まりも多い。

入口で、先ほどの公認日本語ガイド氏と合流して、収容所内を先に進むと、雪が降り出し、寒さが一段と厳しくなる。スマホが操作出来るように親指から中指までの指先がカットされた手袋を着けていたが、その露出した指先が痺れてくる。ポケットに入っているはずのホカロンも痺れた手では見つからない。

こんな気候の下、収容された人々は粗末な衣類、粗末な食事、数人に1枚の毛布、といった状況で強制労働に耐えなくてはならなかったとは、非常に厳しかったと感じる。

雪が降る中、寒さに耐えながら歩いて行くと、右手にビルケナウ収容所の象徴的な門が見える。貨車に乗せられて通過した大多数のユダヤ人は2度とくぐることが出来なかった門。

アウシュビッツ開放75周年式典の会場設備の撤去工事中のため、近くに寄ることは出来ませんでした

最初に向かったのは、門から収容所内に伸びる引き込み線路。ここで、連行されたユダヤ人は貨車から降ろされ、その場で、強制労働組とガス室送り組に選別。 15歳未満の子供、高齢者、病弱者など過酷な強制労働に耐えられないと判断された大多数(7割程度)はガス室へ直行。

ガイド氏の説明によると、カポー(管理を手伝う被収容者)の中には、14歳の子供には「年齢を訊かれたら15歳と答えなさい」とか、高年齢者には「身体を真っ直ぐに立って、年齢を10歳若く申告しなさい」とか、ガス室送りにならないよう耳打ちする者もいたとのこと。

線路の上には貨車が1両。ユダヤ人が乗せられた家畜運搬用の貨車。

引き込み線路の門に向かって左側には、強制労働組に選別されたユダヤ人の居住区。後期に建てられたバラックのようだった木造の収容練は朽ち果て、今は土台等を残すのみ。元々、湿地だったという場所なので、木造の建物はもたない。

そして、引き込み線路が伸びる先の両側には、ガス室と焼却炉を備える建物が2練。 敗戦近くに、証拠隠滅のため、爆破処理された。

説明板。左側の説明板にガス室・焼却炉の見取り図

「シャワーを浴びさせる」と言われて、服を脱いで並ばされた場所の跡は、レンガの壁が比較的に残っている。

しかし、ガス室跡は爆破されてメチャクチャ。

中央奥がガス室跡

そして焼却炉も同じく爆破処理でメチャクチャ。

焼却炉の裏手に廻ると、レンガで作られた小さな小屋。ここでは、焼却した遺骨を川に流せるように粉々に砕いていたとのこと。

次に案内されたのは、初期に建造されたレンガ造りの収容練。

収容練の内部は、土間の通路の両脇に3段の棚。ここが強制労働の後の疲れを癒すベッド。

レンガの隙間等に塗られたコンクリート部分には、見学者によって削られた沢山の落書き

高さは60㎝位で、幅・奥行は2m程度。1段に8人が寝かされていたとのこと。

これで、足元に注意しながらガイドの説明を聴き、痺れる手で写真撮影という1時間のビルケナウ訪問が終了。時刻は午後2時。シャトルバスでビジターセンターに戻り、トイレに直行。

ツアーバスは、ビジターセンターを2時20分に出発して、クラクフのマテイキ広場で解散したのは、ちょうど4時。フランス大統領がクラクフを訪問中とのことで、そのための交通規制で発生した大渋滞の影響。

疲れを癒やしましょう

アウシュビッツ・ビルケナウへのツアーで歩いた歩数は1万3000歩。それも、足元が悪くて、雪が吹付ける状況。心身共に疲労はマックス。

ホテルの部屋に一旦戻った後に向かったのは近所の商店。ここでミネラルウォーター(2.2ズロチ)と寝酒のツマミを購入。

タイマッサージは断念

そして、グーグルマップで評判の良いタイ式マッサージ屋へと向かう。旧市街市街の中央広場を抜けた先にあるビルの入口に看板を発見、中に入ろうとするが、ドアはロックされており、開けるのにはコードキーが必要。

そこで看板に記載された電話番号に携帯電話から電話をかけ、数回のコールの後に応答した女性に「予約はしていないが、今、マッサージは受けられますか?」と訊くと、「yes」との返事。ドアロックを解いてもらって中に入り、階段を登って店舗へ。出迎えてくれたのはポーランド女性。しかし、話を聞くと「今は施術場所が空いていないので、施術は20時20分から」とのこと。2時間以上も待つのは無理なので、マッサージは断念。

Smakolyki で夕食

続いて向かったのは、昨晩同様、Smakolyki スタッフはフレンドリーだし、料理も旨くて、おまけに安い! ここ以外の選択肢は思い浮かばない!

まずはウォッカとビールを注文した後で、女性スタッフに昨晩の注文内容を伝えた上で、「今晩のお薦めは?」と訊くと、「Dumpling!」との応え。メニュー1番上に記載されたダンプリング(つまり餃子)を注文。

さらに、女性スタッフが「ダンプリングは1皿8個。他にも料理は?」と訊いてくるので、鶏のソテーを注文。鶏のソテーの付け合せはメニューの右側(単品注文だと6ズロチ)から選択するのだが、摂取カロリーも気になるので、お薦めのポテトフライではなくサラダを選択。

そして出てきた料理がコレ!

ダンプリングには味付けされた焦がしオニオンが乗っているものの薄味。ポケットから取り出した醤油をかけると美味。鶏ソテーも薄味なので、追加でパラペーニョソースを注文。このソースを乗せると淡白な鶏の味が引き立つが、数秒後には辛さの刺激が口の中に広がる。その都度、ウォッカとビールで口直し。

サラダは、甘酢で味付けされている。人参はお節料理の「すあま」と全く同じ味。赤カブの漬物が酒に合う。

疲れもあるので、本日のウォッカは2ショットのみ。お会計は、全部で62ズロチ(約2000円)だが、昨晩に続いて心地良い夕食を提供してもらったので、70ズロチを渡して、お釣りはチップ。

ThaiBaliマッサージ

食事を終え、ほろ酔い気分で旧市街を歩く。もうすぐ城壁の門というところで、タイ式マッサージの看板を発見。グーグルマップでは、先程入れなかったマッサージ店よりは少し評価が低かった店。

試しにビルの奥へと進み、店舗のドアを開けるとタイの服を着たポーランド女性。マッサージはすぐに出来るとのこと。脚中心のフットマッサージ1時間の料金は170ズロチ(約5600円)とチョットお高いが、そろそろ脚も限界に近いので、マッサージを受けることに。

施術してくれる中年女性が出てきて挨拶するので、タイ語で話しかけたが、彼女はインドネシア人でバリ島出身。そう言えば、店の名前は「タイ·バリ」。結果的には、マッサージ自体は上手で、クリームを付けながら脚の筋を伸ばしてくれる。筋肉をグリグリ押しまくるタイ式マッサージよりは脚に優しく、結果オールライト!

1時間の施術を受け、軽くなった脚でホテルに戻ると、時計は9時半。テレビを見ながら、先程ミネラルウォーターと一緒に購入したサラミチップをツマミに、ウイスキーのタレ瓶3本を飲んで、10時半には就寝(段々、体内時計がヨーロッパ時間に慣れてきた)。

本日の歩行数:2万400歩

コメント

  1. 京の弟子 より:

    お疲れさまです。
    アウシュビッツ、ビルケナウでの様子を拝見し、小生は逆にその後、シンドラーのリストを改めて見直しました。本当に衝撃的で辛くなりますが、教訓にしなければならない映画ですね。
    深く悲しい場所ですが、直接現地を見た人にしか感じられないことがあったのではないでしょうか。

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